なぜ早く決められないのか

67回終戦記念日の8月15日、多くの人の目はロンドンオリンピックに向けられていたが、私は終戦 なぜ早く決められなかったのかというNHKスペシャル番組を視聴した。1945年2月の米英ソの首脳によるヤルタ会談ソ連の対日参戦が決められた。この重大な情報は日本の駐在武官の知るところとなり、日本の軍部の上層部(大本営?)に暗号電文で報告された。連合軍によって解読されたこの電文の存在がロンドンの公文書館に所蔵されていることが最近の調査で明らかになったのである。

当時この報告を受けた軍部の上層部の誰かがこの重大な情報を握り潰し、指導部の大勢は最後の一撃で有利な状況を作りソ連終戦の仲介を依頼する方向へと向かったという。しかしその戦力はまったく残っていなかった。大本営陸相海相、首相、外相などからなる指導者による終戦をめぐる御前会議が2回にわたり召集されたが知ってか知らずか誰一人ソ連の参戦について触れることはなく天皇にも知らされることはなかった。曖昧なまま戦争収拾の結論は先送りとされ貴重な時間を失っていった。これらのリーダー達は何故真剣に心の中を明かし合わなかったのだろう。立て割り組織の中で彼らは自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあって会議は結論を出すことなくうやむやに先延ばしをすることになった。忘れもしない本土決戦、一億玉砕が叫ばれたあの時である。このため3か月後には原爆の投下、ソ連の侵攻で数十万人という国民が犠牲となった。

どうやら日本の政治や社会構造には縦割り組織、権力構造が染みついているようだ。この習性は大敗戦、大災害など何が起こっても変わることがない。66年後、それを如実に示したのが福島第一原発事故だった。国、東電、御用学者よりなる原子力ムラという巨大な権益組織で固め安全神話を作り上げて安全を棚上げして原発建設を推し進めた。これを危惧する少数の学者は不遇で彼等の警告は無視された。事故後の対応にも多くの問題が積み残された。想定外の自然災害と言って責任を回避する東電や学者たち、米軍機の測定による放射能汚染状況の提供を受けながら貴重な情報の共有が出来ずに多くの被曝者を出してしまった文科省のお役人たち、東電がメルトダウンを認めたのは事故後2か月も経ってからだし、メルトダウンした核燃料の現状も把握出来ぬまま事故の収束宣言をする総理大臣、宙に浮いた無防備状態の危険な使用済み核燃料には対応策すらまだ立っていない。この大事故で誰一人責任を問われることなくすまされる社会構造は信じ難い。

脱原発依存の気運が高まったのは当然である。しかしこんな状態で総理大臣の決断で関西電力大飯原発の再稼働が始まった。大飯原発福島原発に比べて安全性に優れているという事実は何もない。再稼働の理由は関西の電力不足とそれによる経済の停滞を厭うためであり、電力会社とその関連企業の権益、自治体の利益を守るためでしかない。安全を最優先する脱原発の発想は早くも揺らいだ。再稼働の決定について首相は国民の生活を守るためにと言ったがそれは詭弁にしか聞こえない。こうして政治、電力会社の組織権益の維持のために基本的な問題は先送りされて行くのである。

福島の事故から間もなく1年半が経つ。福島の復興と脱原発再生可能エネルギーの将来像が何故早く決められないのか?67年前の終戦の愚かな結末を思い出すにつけ今の脱原発依存問題の成り行きがそれとそっくりであることに慄然とするのである。

毎週国会周辺で原発再稼働反対の自然発生的市民デモが続けられている。政府の調査でも2030年までに原発ゼロを選択する国民は7割に達している。政府や民主党では今日にもこの問題を議論するということだが終戦時の国の指導者の愚だけは踏襲することのないように願うばかりである。

NHKスペシャルの映像はこちら

大飯原発再稼動の先にあるもの

大阪市の橋下市長が手の裏を返したように大飯原発の再稼動容認を表明し、京都、滋賀も腰が砕けたようだ。原子力規制庁もまだ出来ないというのに、もはや野田首相の決定に委ねられた再稼動は時間の問題となった。圧倒的な国民の反対、不安は無視され、行政と電力関連会社など推進派の権益は保証された。福島の事故から1年3ヶ月、収束の見込みも立たず今も多くのリスクをかかえ、多くの被災者が苦しんでいるというのに!これは政治行政の堕落であり崩壊である。

 

関西電力の需要予測によるとこの夏関西の電力は15%の不足ということだが算出根拠ははっきりしない。昨年夏の関東の節電実績を見ればこの位の節電は国民の省エネへの知恵と努力があれば克服出来るのではないだろうか?またその成功によって将来の日本のエネルギー事情は脱原発へ大きく舵を切ることが出来るだろう。反対に大飯原発の再稼動は省エネへの意欲を阻害し再生可能エネルギー開発の芽を摘み取り、さらには各地の原発再稼動に連動波及して脱原発は元の木阿弥に戻ってしまうだろう。歯止めのなくなった原子力技術や産業の海外輸出も恐ろしい。それは世界的な核の拡散にもつながるからだ。

新しい再生可能エネルギーへの追求がなければ日本の将来はない。日本はもっと脱原発のドイツの先見性と知恵に学ぶべきだ。原発依存度75%のフランスでさえ新大統領になり脱原発に舵を切り出したではないか。

原発再稼動の愚

関西電力大飯原発の再稼動が取り沙汰されている。一体そんな事があって良いものだろうか?

第一に安全性の保証がない。政府の中枢はストレステストで安全性を確認したということだが、大飯原発福島第一原発に比べて何処がどう安全なのだろうか? 具体的な説明は何もない。聞くところによると福島第一で曲がりなりにも事故対策の拠点となった免震重要棟すらないという。福島では役立たずだったオフサイトセンターはちゃんと機能するものがあるのだろうか? 防波堤の嵩上げは25年度に出来るというがその間に津波がないとは保証されていない。免震事務棟やフィルター付きベント装置他の安全対策はなんと27年度に予定されている。安全対策は先送りで再稼動は妥当とは理解できない。原発へのルートは山を削って作った一本の道路しかない。素人目にも地震による山崩れで道路いや原発そのものも危ないと感じる。


第二に独立した原子力規制庁がまだ出来ていない。IAEAの査察でも槍玉に上った経産省所属の札付きの原子力安全・保安院が監査をするなんて到底考えられない。その有害無益な存在は福島の事故で証明済みである。

ところがどうもいま政府の中枢は何としても再稼動をしたいらしい。「再稼動しないと日本は集団自殺だ(仙石)」とか「一瞬、日本の原発はゼロになる(枝野)」とか国民を脅し惑わすような発言が政府要人の口から飛び出して来る。彼等には権益擁護のための原発再稼動のプレッシャーが電力関係組織や経団連からかかっているのだろうか。それに屈することこそ政府の集団自殺である。

大飯原発の再稼動がないとこの夏に一昨年のような猛暑が来ると18%なにがしかの電力不足が起こるというがこれは関西電力の試算であってそのままうのみに出来るものではない。それは恐らく真夏のある日の午後、最悪の一瞬の想定だろう。行政は第三者機関による独自の調査で信頼に足る数字を出しその内容の詳細を国民に公開すべきである。そして原発なしでどう乗り切るかをあらゆる面から考え、その方法を提示し国民の協力を要請する。それが政府のやるべき仕事である。国民はそれが納得出来るものであれば不便を凌いで協力するだろう。昨年夏の関東首都圏の人々の行動を見ればそれは明らかである。その方が原発事故の不安に怯えて生活するよりも余程賢明である。ここで再稼動を認めれば将来的に脱原発依存は大きく後退するはずである。一方ここで省エネ技術や再生エネルギー技術を徹底的に追求することは地球温暖化への対策として将来的に有益である。

最近の世論調査では町の経済生活を全面的に原発に依存している地元のおおい町を除いて周辺の福井、京都、滋賀、大阪で圧倒的に再稼動反対だった。この住民の判断は正しい。原爆の悲惨、原発の怖ろしさを体験した日本人として当然のことである。福島の事故はまだ収束にはほど遠い。収束にはまだ何十年の月日と莫大な費用と将来じわじわと起こるであろう健康被害の可能性すら孕んでいるのである。今も福島第一原発からは放射能が毎日撒き散らされているのだ。再稼動の暴挙を絶対に許してはならない。

福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書

福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書

アメリカ vs.日本

日本には原発事故に関する何ヶ月にもわたる事故対策検討委員会の会議の議事録が全く無いという信じられないような報道を聞いて唖然としていたら、アメリカから彼の国で行われたこの事故に関する独自の調査や議論の3200ページに及ぶ詳細な報告書が送られて来たそうである。そこには発言者の一言一句が詳細に書かれているという。日本の行政の稚拙さを世界に露呈した恥ずかしい話である。この事実に日本の閣僚や官僚のまともなコメントは聞かない。議事録は後追いでこれから作ると言うのだから驚く。(作成は後日メモなどをもとに76ページの体裁だけのお粗末なものが作られたと言う)


このアメリカの報告書に照らして日本での事故の把握、対応に関しては大きな遅れがあったことが分かった。例えば3月11日の事故数日後にアメリカでは原発3基のメルトダウンを予測していたのに、東電が2号機のメルトダウンを認めたのは何と2ヶ月後だった。避難区域の設定も半径20kmと80kmと大きな差があった。日本の20kmはその後次第に広げざるを得なかった。これによる被害の拡大は将来に禍根を残すことになるだろう。避難計画の指標となる航空機による汚染地図の作成もアメリカが独自に3月17−18日に実施しているのに当事国である日本側の観測は連絡ミスによる遅れで25日以降になったという。

またSPEEDIという緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムを持ちながら誰もその存在すら知らずそのデータが活かされることも無かったと言う。何故そうなったか、誰がどう判断したかは議事録すらない今となっては闇の中である。悔やまれるのは得難い貴重な体験が今後に活かされず闇に葬り去られることである。

政府はパニックを恐れて事故をなるべく過小に公表したかったのだろう。でも本当は真実をありのままに伝えて国民に理解と協力を求めるべきだと思う。それによってもっとスピード感をもって対処出来ただろう。隠蔽や誤魔化しで国民が政府を信頼出来なくなれば混乱はより大きくなるはずで事実はそうだった。これらの事実は東電ともども日本の行政の隠蔽体質を露呈したものだと思う。また原発推進の関係者が原子力に関する安全神話を作り上げあぐらをかいていた結果でもある。

野田さんが昨年末に冷温停止をもって「事故収束宣言」を行ったがこれは誇張された言い廻しである。メルトダウンした炉の核燃料の状態がまったく分らないからである。また大量の使用済み核燃料が不安定のまま放置されている事も大きな問題である。完全な廃炉には40年かかるという。「収束」という言葉は如何にも現実から遊離しているし誤解されやすい。。

原発推進を進める経済産業省の中にチェック機関である原子力安全・保安院があるという組織的な欠陥も事故直後のIAEA査察団によって指摘されながらいまだに改善されていない。そのために事故後1年になるという今になっても今後の原発再稼動をどうするかという問題についての方向性が決まらない。

被災者の救済についてもスピード感がない。日本のみならず世界各国から寄せられた被災者への義援金の半分がいまだに使われず宙に浮いているという。行政の怠慢もしくは機能不全としか言いようがない。1年も経つ今頃になってやっと復興庁の看板が出来たという。

国家の危機に対して政治家は何をして来ただろう?一党一派一個人の権益を巡って醜い足の引っ張り合いをやっているだけで与野党一致協力して国難を乗り越えようとする気迫がまったく感じられない。これは自民、公明の野党に著しい。解散総選挙を叫ぶだけで政権を奪還したらこうするという訴えがまったく聞こえて来ない。与党の民主党でも党内派閥の存在で党の方針がさっぱり決まらない。今こそ野田さんには強力なリーダーシップを発揮してもらい、議員一人ひとりが心を入れ替えて議員定数や公務員の削減を始めとする政治行政の改革を断行して国民の不安を解消してもらいたい。そうでないと昭和初期のような議会解散、翼賛政治の時代に戻りかねない。すでにその芽が出かかっているように思えてならない。

原発輸出・死の商人

野田首相は来日したベトナムのズン首相との間で原発の建設に協力するとの協定を結んだという。この話には勿論3月11日の原発事故より前からの経緯があるのだろう。でもこの大事故で苦しんでいる国民を尻目に日本政府が何の反省も逡巡もなく原発の輸出に踏み出すのにはまったくの違和感を禁じ得ない。次にはインドやトルコにもという話もあるらしい。

勿論日本の技術を発展途上国に輸出することは相手国を援助し日本の国益に適うことだろう。しかし相手国が如何に評価しようとも日本の原発技術が欠陥だらけの砂上の楼閣であることは身をもって証明したはずである。まさか将来事故が起きても日本でないから構わぬと考えている訳ではあるまい。原発事故の被害は一国にとどまらない。原発の安全や使用済み核燃料処理の問題は早急に解決されなければならない深刻でグローバルな課題である。

原発輸出は道義的にも許されない。利益のために自らの失敗を顧みず危険を承知で売りつけるのは武器輸出にも劣らぬ「死の商人」と言えよう。国際的パートナーシップを築くのは信頼である。本当に信頼をかち得るためには安全な自然エネルギーの活用技術の開発と輸出を目標とするべきではないだろうか。ここで原発輸出を始める事は将来にわたって原発技術の向上開発の継続に口実を与えかねない。

原発事故の収束さえ目途が立たないというのに菅前首相が唱えた脱原発依存はどうやらすでに反古にされたらしい。「なまず」は地震を起すと言うが「どじょう」は一体何を起すのだろうか?脱官僚を放棄したことは彼の国会答弁を見れば明らかである。

原発のウソ (扶桑社新書)

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原発はいらない (幻冬舎ルネッサンス新書 こ-3-?)

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死のまちという表現

菅さんが孤軍奮闘頑張り過ぎて裸の王様になってしまい、新しく野田内閣が発足した。でも少し落ち着くかと思いきや早々に閣僚の失言問題がとび出してしまった。

大臣の中でも原発問題で今最も注目される経済産業大臣が就任早々の福島原発被害地視察で「人っ子一人いない死のまち」と表現して非難を浴び辞任に追い込まれた。

色んなメディアが寄ってたかって「被害住民の感情を逆なでするものだ」と非難する。野党は早速「解散総選挙しかない」と内閣の足を引っ張る。その結果としての辞任だった。

どんな文脈の中で使ったか定かでないが「死のまち」という表現自体がそれほど悪い表現だとは私は思わない。現実はその通りだろうと思うからだ。大事なのは当たらず触らずではなくその現実から目をそらすことなく正面から対峙することだ。そしてこの事態をどう収束し復興に繋げるか方法と手段を策定し実行することだ。そのための施策を議論するならよい。単なる不用意な失言での辞任とは虚しい。あっさりと辞任したのはこの人の無責任さと無策と情熱の不足をさらけ出したものとしか思われない。

反省してもらいたいのは失言大臣だけではない。言葉尻を捉えてことさら失言を騒ぎ立て手柄顔にネタ作りをするメディアの取材記者達、その報道に飛びついて権益の拡大と党利党略にうつつを抜かす政治家達、これで日本の復興は出来るのだろうか?

失言報道には取材記者に「放射能をうつしちゃうぞ」と言ったとか訳の分からぬオマケ騒動までついた。子供じゃあるまいしいい加減にしてもらいたい。これがニュースとは恥ずかしい。

内部被曝の真実 (幻冬舎新書)

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中国vs.日本

 

中国の高速鉄道事故には唖然とした。中国鉄道省は事故車両を壊して穴に埋め乗客の救出もそこそこに現場の検証、事故原因の解明も待たず僅か一日半で運転を再開した。そこには国家の威信の前には人命や安全は二の次であり失態の隠蔽が最重要であるとする体質が露わであった。言うまでも無く中国は共産党一党独裁政権でありこの事件は天安門事件とともにその怖ろしさを実感させるものだった。

ところでこのニュースですぐに思い浮かべたのが日本の原発事故だった。放射能漏れについては枝野官房長官は「ただちに人体に影響を与えるものではない」を繰り返し、東電が原子炉のメルトダウンを認めたのは事故後二ヶ月も経ってからだった。いま5ヶ月近くを経過して曲がりなりにも原子炉の安定冷却に到達したというが今後の見通しについては予断を許さぬ状況が続いている。日々より広範囲での魚介類、農作物、家畜の汚染が明らかになりつつあり直接の被災者のみならず全国的に国民の不安は高まりつつある。

民主国家である日本の政治体制は中国のそれとは大違いと思われるが、政府や官僚の本質を見ると意外な共通点を持つことが分かる。原子力発電について言えばこれは国家的プロジェクトととして進められたがその推進や運営に関しては経済産業省と東電を始めとする全国7つの独占企業である電力会社の利権をバックとする密接な連帯のもとに進められた。

経済産業省の中に原発を推し進める資源エネルギー庁と安全を監督規制すべき原子力安全・保安院が同居していた。別に識者による原子力安全委員会内閣府に存在したがそれはほとんど開かれることもなく機能していなかった。福島原発事故査察のため来日した国際原子力機関IAEAの査察団はいち早くこの体制の不備を指摘したがいまだに改善の動きは見られない。

それどころか最近もっと忌まわしい報道に耳を疑った。かって中部電力九州電力原発建設の地元で行われた国による現地説明会で電力会社や関連企業の関係者を動員して原発建設に例文つきで賛成の意見を述べさせたといういわゆるやらせ事件である。このやらせは安全・保安院が計画演出しメールによる根回しを行ったものだという報道を聞いて背筋が寒くなった。その説明会で会の進行を取り仕切っていた当時の保安院の課長が今は保安院報道官として堂々とテレビで解説をしている。これはまさに中国の隠蔽体質と同じではないか!

脱原発(個人的にだそうだが)を標榜する菅さんにはこの経済産業省改革にすぐにも取り組んで頂きたい。菅さんはこの構図は彼が厚生大臣時代に問題となった厚生省と製薬業界の癒着による薬害エイズ事件と同じだと述べている。


原発のウソ (扶桑社新書)

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