ノーベル賞雑感

はてな?湯川さんに始まる日本人の受賞者は何人になったのだろうか。いっぺんに四人もの日本人がノーベル賞を受賞した。おめでたいことである。

物理学賞の対象となった小林誠さんと増川敏英さんの論文は35年前、その研究の先導となった南部陽一郎さんの論文は48年前の発表だった。一方化学賞の対象となった下村脩さんの研究はやはり46年前に発表した論文である。遅きに失したと思う人も少なくないかもしれないが、このことは基礎研究というものの本質をよく物語っていると思う。私は素粒子の理論物理はまったく門外漢だが、クラゲの蛍光蛋白の下村さんの研究については感じるところがあった。

ゆらゆらと揺れながら緑色の妖しい光を発するクラゲ、下村さんはこの光の虜になった。生物発光の研究で名高い名古屋大学の平田教授の研究室でウミホタルのルシフェリンの研究で学位を取った下村さんはプリンストン大学に籍を得てジョンソン教授のもとでクラゲの研究を始めた。ワシントン州の海岸でオワンクラゲを集め1万匹のクラゲから光る物質の抽出を始めた。苦心して精製した末発光タンパク質を発見した。この物質はGFP(green fluorescent protein)と名付けられた。同時に取り出されたエクリオンというタンパク質の出す青い短波長の光をより長波長の光に変換するタンパク質であった。むしろエクリオンの研究の副産物とも言える。その後の発光の仕組みを明らかにする研究に延べ75万匹ものクラゲを使ったと言う。研究の協力者は家族だった。奥様や子供たちも手伝って近くの海岸でクラゲを営々と集めたのである。

「これがこんなに役に立つとは思ってもいなかった」と下村さんは語る。1992年にGFPの合成遺伝子が見つかり、それを細胞に組み込むことで紫外線を当てると細胞が光りその動きが眼で見えるようになった。がん細胞やアルツハイマー神経細胞などの生体内の挙動が眼で見えるようになったのである。今や医学生物学研究や臨床の欠かせぬツールである。でも研究の端緒は一人の研究者の素朴な自然を見る目だったのである。最初から実用を目指す研究は多い。でも本当に新しい概念や飛躍的な応用をもたらすのはこのようなノンプロフィットの基礎研究である。

現在は大学から引退したが自宅の地下室を実験室にして光るキノコの研究を続けているという80歳の下村さん、奥様は何十年も彼の実験助手を務めているという。何とハッピーな生活ではないか!人は年齢ではないと実感する。

「クラゲは何のために光るのですか?」インタビュー記者の質問に"I don't know. Ask jellyfish !"と素っ気なく下村さんは答え、皆がどっと笑った。推量や憶測はあえて述べない下村さんの控え目な人柄がにじみ出ていると思った。

思い出したことがある。もう故人となったが私の友人が1963年にカリフォルニア大学で綿の落果ホルモンを取り出した。奥様と小さなお嬢さんの三人で毎日綿の実を割ったと彼は語った。論文を書いたら妻と娘に感謝すると書きたいとも語っていた。このホルモンはその後すべての植物に普遍的に存在する植物ホルモンとして世界中で植物研究に使われている。


物理学賞の三人の日本人の理論もその評価には半世紀にわたる長い道のりがある。今世紀になって彼等の理論を実証する実験結果が出始めたところである。この研究などは宇宙創生を説明するという遠大なものでどんな役に立つのか私には想像もつかない。

意外だったのは増川敏英さんはまだ日本から外に出たことが無いそうでこれにはびっくりした。外国人との交流が無くても本当に独創的な研究は出来るのだなあ。共同研究者の小林誠さんの奥様の談話でやはり奥様は外国旅行は始めてでそれがノーベル賞授賞式とは嬉しいと話しておられた。そんなものなのだなあ。

印象に残ったのは益川さんが「大して嬉しくありません。私の理論が実証されたのは2002年でそれは嬉しかったが、ノーベル賞は社会的なイベントだから」と押しかけた記者たちに人を食った感想を述べた。でも一夜してあらめて記者会見した時、南部陽一郎さんと同時受賞の感想を求められると「南部先生は私の仰ぎ見てきた先生だった。一緒に受賞するなんて・・・」と感極まって涙が溢れた。余程大先駆者87歳のの南部さんを尊敬していたに違いない。1960年に発表された南部さんの論文をしゃぶりつくしたと言う。